ゆっくり歩く。

2008年10月19日 22:19 (日)

先日の日記にて、最近心がけていることを書いたんですが、もう一つ心がけていることが増えました。

ゆっくり歩くということ。

先日、仕事の帰り道あまりに疲れ果て、早く帰りたい気持ちよりも歩く億劫さが勝ってしまい、ものすごくゆっくりのろのろと歩いて帰りました。
私はせっかちな人間なので、歩く速さもセカセカと歩いてしまうのですが、その時バランスが取れなくてふらつくほどゆっくり歩きました。このゆっくり歩くというのがものすごく新鮮で気持ちのいいことだと知りました。

まず気づいたこと。
ゆっくり歩き出して一番気づいたことは周りの気配です。夜は静かでだからこそだと思うのですが木々の気配をとても感じました。言葉で言い表せないのだけど、ドンと根をはってそこに「いる」というような。思っていた以上の存在感。
ゆっくり歩いただけなのに、普段と同じ景色がまるで違うもののように感じました。面白い。
葉っぱに触れてみたり、匂いをかいでみたり、空をじっと見たり(その日はお月様がとても奇麗でした)。気がつけば胸のつかえが取れているような、とても楽な気持ちになっていました。

普段、セカセカと歩いてしまう私。
その時以来、時々意識してこんな風にゆっくりのんびり歩くようにしてみようと心がけています。そしてゆっくり意識して歩いたとき、自分がどれだけ急いで焦っていたかに気づきました。ゆっくり歩くという選択もこれまでもできたはずなのに。そうしなかったのは焦っていたからではないか?と思いました。それに、そうすることが焦っている状態が普通だとずっと思い込んできたから。
気づけば肩に力を入れて歯を食いしばっています。たまには意識して力を抜いてみる。ゆっくり歩いてみるというのをしばらく続けてみようと思います。

自分の声を聞く

2008年09月24日 22:55 (水)

切りすぎた

最近特に心がけていること
それは自分の声に耳を傾けること。
自分の声を聞く練習。

簡単のようでいて結構難しい。
少なくとも私は難しいと感じている。

「自分の声を聞く」なんて、特に大それたことでもなくて
すごく簡単な身近なことだったりする。
足が疲れたと感じているので少し休んでみるとか
喉がものすごく渇いているけれど、もう少しで家に着くので飲み物は持っているけれど家まで我慢する、とか。すごく簡単なことなんだけど自分の声を無視することが多い。
その思いを振り切って我慢してしまう。
当然我慢しなければいけない場面は多々ある。
仕事中、タイツがきつく、足が痛いので脱ぎたいと思っていきなりお客さんの目の前でタイツを脱ぎ出したら変だし。

無理なことは仕方ないけれど可能な限りその欲求をこなしてみる、というのをしてみてる。
それをしてみてすごくわかったことは、私はよくトイレを我慢する。
あとちょっとで休憩だし、休憩のときにトイレにいけばいいかと我慢する。優先順位の問題かもしれないけど、なんか我慢しちゃうんだなあ。
あとは「もう眠いんですけど」も無視しがち。
なんだかんだと夜更かししてしまう。
もうずっと前に「そろそろ寝ませんか?」という声が聞こえているはずなんだけど「楽しい」を優先させて夜更かししちゃう。

*----------*

絵と文章は関係ないつもりだったけど思い出したこと。
自分の声を聞くといえば前髪を自分で切るとき。なんとなく「もうそろそろこの辺でやめておいたほうがいいんじゃない?」みたいな事を心のどこかで思ってるような気がするんだけどそれを聞かない振りして切りすぎたりすることがしばしばある。それも後になって「そういえばあの瞬間やめとけ」って言ってた気がするなあと思ったりする。
自分の声って勘みたいなものもあるかもしれないから、聞いとくとよいかも?

今年のせみ

2007年08月30日 20:48 (木)

昨年もせみのことをよく書いていたけれど
私はせみが好きなのかしら。
案外かわいい顔をしているし。
突然暴れだすのはちょっとびっくりするけれど。

+ + +

いつも通る公園の木にはたくさんのせみの抜け殻がくっついている。
それが、今年はさらにすごかったように感じた。その量が。

せみの鳴き声は一匹でもうるさいのにそれが複数重なって悲鳴のような、時雨というより、滝のようだ。
超音波のような高音がそこら中に響いていて、頭が割れそうだと思う。
そこらの木を見ると、いつの間にやらこんなに「ふし」がついたんだろうと思うけれど、よく見ると全部せみで、ひとつの木にざっと15匹くらいくっついている。
そんな木が何本も何本も立っている。

私はいつもそのせみだらけの公園を通って外出をする。
いつだったか、公園の横の、さらに木が生い茂った小さな森のようになった小道を歩いていた。
小さな森は朝は太陽の光が差し込み、葉が薄緑色に光って重なって、とてもきれいなので好んでその道を使っていた。
けれど、あの朝あの道を歩いていたらそこらの木に止まっていた大量のせみが私の気配に驚いたのか、または違う理由でか、いっせいに舞いだした。ギチギチ音を立てながら。
ぶんぶん私にぶつかってくるもの、上を右往左往飛び回るもの、小さい水しぶきが上のほうから降ってきて、驚いた。
私を木と間違えて止まるのもいた。
「止まるのだけはやめて~」と、いくらせみがかわいいかな、なんて思い始めた私でも、さすがに触るのはいやだったので、大急ぎで通り過ぎた。後ろを振り返るとまだせみたちが大騒ぎしているように飛び回っていたので、しばらくは大好きなこの道を選んで歩くのは控えようと思った。少し残念だったけれど。

公園を通るたびに木にどれだけせみがくっついているのか確認するようになっていた。毎日同じようにひとつの木に15匹ぐらいびっしりくっついて、ジリジリジリジリと鳴いている。ほとんど油蝉のようだ。
そしてせみを確認するのと同じように、せみの抜け殻も毎日確認した。今日もたくさんついている。昨日と同じ場所に。そして公園のいたるところにある、傘で突いたようなたくさんの小さな丸い穴も。

あの穴を見ていると、あの暗闇の向こう側はどこへつながっているのだろう、なんてぼんやり思う。あの暗闇の小さい穴の向こうが、ここから抜け出したせみのすべてだったのかな、なんて思いながら。

+ + +

ここ数日涼しくなって、鳴いているせみの種類が微妙に変わっていることに気がついた。
ほとんど「ジリジリジリジリ」という油蝉のものだろうと思われる鳴き声だけだったのが、ミンミンゼミや、つくつくほうしのものが混じりだした。せみにも微妙に時期が違うのだな、と思った。
実際どうなのかは、調べていないけれど、私の近所ではそうだったから。

最近のような涼しい夜は、せみの変わりに秋の虫が鳴いている。
もう、秋なんだなあと寂しく思う瞬間だ。
夏から秋にかけてなぜか寂しい。

+ + +

今日、いつも通るせみの大合唱の公園を通ったら、木にせみはほとんどいなかった。遠くから鳴き声は聞こえているものの、見た目にはほとんど姿は見えなかった。
代わりに木の下に転がるたくさんのせみの死骸。
いつもの木にあれだけびっしりくっついていたのと同じくらいのせみの亡骸がそこら中に落ちていた。
なんだか、とても悲しくなった。あんなに悲鳴に近いような声を上げて鳴いていたせみたちが、無言のまま転がっている。最期はどうだったのだろう。最期のそのときまで声をあげていたのだろうか。怖くはなかったのだろうか。痛みはあったのか。老衰ってことなのだろうか。さまざまな思いが頭の中を駆け巡る。

最近、毎年思うことなのだけれど、今年鳴いていたせみと同じせみはもう二度と鳴かない。一匹一匹が別の違うせみであり、違う命なのだ。
今年鳴いていたせみはもう、二度と鳴かない。

また来年、違うセミたちがたくさん飛び回り、鳴き叫びそうして子孫を残して死んでいくのだろうな。それは私たちも同じこと。私の時間と比べてせみのそれが短く見えるけれど、まったく同じこと。

夏から秋にかけて寂しいのは生と死を見るからだろうか。
けれど、やっぱり季節はそれぞれに美しく、移り変わりは素敵だとも思う。
命は美しく、そして切ないな。

友達欲しい

2006年09月11日 23:24 (月)

今、
最近、素直にそう思っちゃう。

私って、すごく恵まれてたと思うのが、いい友達に囲まれていたこと。
幼稚園から小学校、中学、高校、社会人になってから、ずっと仲良しの友達が各時代それぞれにいた。毎日一緒に遊んだり勉強したり、ふざけたり、けんかしたりした友達。
毎日何か語り合った友達、バカな話から、まじめな話から、将来のこと、夢のこと、恋の話、勉強、仕事のこと、それぞれの時代でいろいろ語り合う友達がいつもそばにいた。それこそ、親友と呼んじゃうぞってくらいの仲良しだった。
とっても恵まれてたなあって、思う。
それも、みんないいやつばっかりで、優しくて時に厳しくて、面白くて、思いやりのある人たちばっかり。

今、パソコンの画面の向こうにたくさんの友達がいて、話を聞いてくれたり、逆に聞いたり、それが当たり前になってたけど、実はちょっと寂しかった。
ちゃんと会って、食事をしながら、ストローを指でぼろぼろにしながら話を聞いたり、フォークで何かをつつきながら話したり、そういうのがしたいなあと思った。
ノートを開いて、落書きしながら喫茶店で粘った高校時代。毎日、毎週、どっかの喫茶店で遊び歩いた社会人1年生時代。ああ、こうして人と顔を合わせながらの付き合いがしたいなあ、と思う今日この頃。

仕事帰りにちょっとお茶するような。
友達欲しい。

せみの羽化、それから

2006年08月18日 14:37 (金)

先日のせみの羽化を見てからもう10日以上経っているんだ。
あの時の生まれたばかりのようなせみはもう死んでしまったんだろうな。
本当はあのときに生まれたばかりというわけではないのだけど、
私にはなんだかそう見えた。そう思えた。

たったせみ一匹なのに、私が見たあのせみは後にも先にも、あのせみ一匹。
毎年同じ夏が来るように思っていたけど、同じせみは二度と夏に鳴かないんだな。
なんか、すごい。切ない。
けれど、今必死で鳴いている(悲鳴のように聞こえるせみの声)せみたちの子孫がまたいつかの夏にがんがん鳴くんだろうなあ。
親から子へそして、また親になった子が、自分の子へ、たくさんのもの、技や思いが受け継がれていくんだろうな。

そうして、命は続いていくんだよ

って、テルー(ゲド戦記)の台詞を思い出した。


そういえば、昨夜子供の大きな声で「せみが羽化してる!」と言っているのが聞こえた。
ああ、あの子もあれを見たんだなあってなんか嬉しくなっちゃった。